坂東玉三郎さん 新春お年玉公演に行って
「歌舞伎女方」では『重要無形文化財』保持者(人間国宝)である坂東玉三郎さんの舞台は、かねてより1度は見ておきたいと思っていました。
そんな私の願いは、新年(2024年)が明け4日、大阪難波の道頓堀にある「松竹座」にて叶うこととなりました。
「着物を着る人を増やしたい!」、と願う私ですが、昨年着付けを習い始めたものの、未だ自分1人で着て、お出かけするには至っておりませんでしたー(反省)
昨年末には、
「来年は普段からどんどん着物を着て、着物に慣れ親しもう!!」と強く決意しており、今回の公演鑑賞はまさにピッタリの機会のハズでした...
今は様々な方が、YouTubeなどで初心者向けに丁寧な着付けの動画をアップして下さっていて、私も頼みの綱としていました。
(なんとかなるやろう...)
けれど、当日動画を見てやってみても、どうも上手くは出来ない...
綺麗に着れない、納得いかない...(汗)
格闘するうち、
(やっぱり着慣れした、綺麗なお着物姿の方々が来られるのだろうな...)、
(やっとこなんとか着ました! みたいな恰好で出かけていくのは、みっともないかな...?)、
(動いているうちに着崩れてきて、気になって玉三郎さんの舞台に集中出来なくなったら...⤵)等など、不安な気持ちが押し寄せてきました (泣)
出発のギリギリ前まで葛藤したものの、結局ワンピースを着て出掛けることに。
あかんやん... (-_-メ)
私のドタバタ劇とは裏腹に、舞台に現れた玉三郎さんの存在感は圧倒的で、それはそれは美しく、細面のお顔とスラリとされた肢体の動きはしなやかで、どこか儚げで感情を内に秘めたような神秘的な雰囲気は、思わずため息が出るほどでしたー
「天才」と言ってしまえばそれまでだけれど、ここまで美しい動きが出来るようになるまでに、一体どれほどの練習と研究を重ねてこられたことだろう...
御年73歳、7歳で初舞台を踏まれてから60年以上、くる日もくる日も、たゆまず「女方」を続けてこられた『たまもの』なのであろうと、その一途な人生に思いを馳せたのでした。
私が尊敬する方々は皆、「継続する」ことの大切さを強調されます。
私も近頃はその意味が分かるようになってきました。
日本の伝統文化である「着物」、それは古来よりその時代に合わせ形を変えながらも、脈々と現代まで守られてきたものです。
私も一朝一夕に綺麗に着物を着られるようになろうなどとは思わず、これからの後半生を通じて、少しずつでもより美しく装えるようになることを楽しみに、着物を着続けていきたいと思います。
「母と私」
「ふみサロ」の6月の課題本、『記憶する体』の「若年性アルツハイマー型認知症」からインスパイアされ、今回のエッセイを書いてみました。
私の母はお見合いをし、24歳の時父と結婚した。 それと同時に仕事を辞め、家庭に入る、と決意したようだ。
その後、2男2女をもうけ、子育てに邁進した。
私が子供の頃は家事に追われていたようで、いつもどこかイライラ気味で、
「子供が2人ぐらいの人は、気楽でええなー」と度々愚痴をこぼしていた。
その印象が深く刻まれた為かどうかは分からないが、私は子育てに追われることに否定的な思いを抱くようになってしまったようだ。
適齢期になっても、私はさほど焦ることもなく、自分自身の生き甲斐を求めることに邁進していた。
身内の私が言うのもなんだが、母は美しい人だった。 面長で鼻筋がスッと通り、肌も綺麗で、やや日本人離れしていた。
一方の私のルックスは、父の遺伝子を多く受け継いだようで、母とは全く似ていなかった。
母は運動神経も人並みに恵まれていたが、私は全くの運動音痴であったー。
同じ血を分かつ母と娘であるが、社交的でない、という共通項を除いては全く似ても似つかず、理解し合えることは殆ど無かった。
昨年、天国へと旅立つ数年前に、母はアルツハイマー型認知症と診断され、その進行は思った以上に早かった。
しかし、母は暴れたり、暴言を吐いたり、私達を困らせることは決して無かった。
母が亡くなってから、母の着物箪笥を整理してみた。
綺麗に整頓された着物の中には私の物も含まれ、そのいくつかには付箋紙が貼られ、「佳子へ」と私の名前が記された物もあった。
私は今そんな母の着物に袖を通す時、母を感じる。 母が生きてきた歴史を感じるのだ。
私達は全く違う人生を生き、生活を共にしていた時には全くと言っていい程分かり合えなかったけれど、今、私は母の娘なのだな…と実感している。
『ゆうちゃん』
かれこれ40年程前、私が中学生の頃、私を含む同級生の女子4人で「交換日記」をしていたことがある。
その中で私が一番親しかったのは、ゆうちゃんだった。
ゆうちゃんは、明るく、活発で、運動神経も良かった。 まるで私とは正反対な感じで、自己表現が苦手だった私は、天真爛漫なゆうちゃんをいつも羨ましく感じでいた。
その後、私達は別々の高校へ進学することになり、それ以降、殆ど連絡は取らなくなってしまった。
月日は流れ、三十路を越えた頃、私は相変わらず独身で、自宅で両親と暮らしながら、派遣社員として自分なりには頑張っていた。
ゆうちゃんと偶然バッタリ出会ったか、突然連絡があったのかは忘れてしまったが、私達は随分久しぶりに再会した。
ゆうちゃんは結婚し、男の子のお母さんになり、離婚して、実家に帰っていた。 元旦那さんは何だかひどい人のようだった。また、脳の病気で大きな手術も経験したとのことだった。
同じ年数生きてきた私達だったが、紺の制服に身を包み、お互いに大好きな男の子の話をして盛り上がっていたあの頃とは、状況が随分と異なってしまっていた。
何だかゆうちゃんがとても大人になったように思えた。
ゆうちゃんはお土産物屋さんでパ-トをしながら子供を育て、私以上に新たな出会いに積極的だった。
私はあまり交友関係が広くなかったので、ゆうちゃんとの付き合いが再開したことが何より嬉しかった。
ゆうちゃんも私も、「これからだよね!」って感じだった。
ある日、ゆうちゃんのお母さんから連絡が入った。
ゆうちゃんが亡くなったというのだ。
ついこの間、あんなに元気だったのに…
その日は子供さんの学芸会の日だった。 その朝にゆうちゃんは心不全の為、あまりにも突然、旅立ってしまったのだ。
人の一生というものは様々だと思う。
その人生が良かったのか、悪かったのかなどと他人が評価出来るものでは決してない。
だけど、ゆうちゃんはあまりにも駆け足でその生涯を駆け抜けてしまったなと思う。
私も何より貴重な友達を失って悲しい。
あんなに天真爛漫なゆうちゃんが天に召されて、こんな私が生かされている。
どうしてかは分からない…
でも、私は死ぬまで一生懸命生きようと思う。
結局、私にはそれしか出来ないのだから。